今週のみことば

~今週のみことば~
わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。 イザヤ書61章10節








2009年6月14日日曜日

「主の道を備えるヨハネ~私たちはどうすればよいのでしょう?」

聖書のみことば:ルカ3:1‐22   坂本牧裕
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)

ヨハネは預言者の終わりとして、神さまから遣わされた者です。預言者にとって大切なことは、いかに神のことばを聞くかということ、そして自分の役目を自覚するところに、その本来の目的を行うことができます。

オーケストラでトランペットを演奏していたことがあります。オーケストラでは、指揮者の声を聞かなければいけません。彼のアドバイスを聞くのは当然のことですが、演奏中は彼の呼吸から、彼の表情から、彼のタクトから、その音楽を聞かなければいけません。そして演奏家は、その音楽の中で自分の役割を認識していなければなりません。そうでなければ、そこには音楽が生まれてこないのです。

バプテスマのヨハネは、神さまという指揮者の声に聴き従う者であり、また彼は自分の役目として「主の道を備える」ことをした人です。



1、悔い改めのバプテスマによって
当時のユダヤ社会では、すでにバプテスマがありました。パリサイ派では、異邦人がユダヤ教に改宗するとき一度限りの、自ら水に入るバプテスマがありました。またエッセネ派では、清めのバプテスマが毎日行われていました。
しかしヨハネのバプテスマは、これらと違いました。一度限り、ヨハネからバプテスマを受ける儀式だったのです。さらにこのバプテスマは、「悔い改めに基づく」ものであったのです。
私たちは自分を「罪人」であると言うことができるでしょうか。神さまの前に、自分自身がそういう存在であることを知るのは大切なことであります。当時のイスラエルの人々が、その大切なことを忘れていたところに、ヨハネが「悔い改めに基づく」バプテスマを説いたのです。

2、メッセージによって
しかし、「悔い改めに基づく」バプテスマを受ければ、悔い改めたことになると考えた人々もいたのではないでしょうか。ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことを激しい口調でメッセージを語ります。

「群衆」は尋ねます。「私たちはどうすればよいのでしょう。」ヨハネは、多くものを持つ者は、持たない者へ分け与えることを語ります。
「取税人たち」は尋ねます。「私たちはどうすればよいのでしょう。」ヨハネは、決められたことを、決められた通りにするように語ります。
「兵士たち」は尋ねます。「私たちはどうすればよいのでしょう。」ヨハネは、自分の力に頼って弱いものを責めないで、今置かれている状況の中で満足して、感謝するようにと語ります。

 このメッセージは、全くその通りであり、人々が「悔い改め」て「実を結ぶ」ような、ヨハネのメッセージのように生きることができたら、どんなによいでしょうか。しかし、実際の私たちには、それができないのです。
パウロはこう言っています。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことではなく、自分が憎むことを行っているからです。」(ローマ7:15)
星野富弘さんという、手足の自由を怪我によって失った元体育教師で、現在は口で筆をくわえて、絵と詩を書く方がいます。彼は詩にこう記しています。二番目に言いたいことしか 人には言えない
一番言いたいことが 言えないもどかしさに 耐えられないから
絵を描くのかも知れない...

神さまが喜ばれることができない私たちは、どうすればよいのでしょうか。神さまから裁かれ、もう滅びるしかないのでしょうか。群衆、取税人、兵士たちのように「私たちはどうすればよいのでしょうか」と叫びたくなります。

3、イエスを紹介することによって
そんな思いにある群衆は、ヨハネが私たちを救う「キリスト」であると思ったようです。しかし、ヨハネ自身は違うと言います。そして「さらに力のある方」が来られること、すなわちキリストを人々に紹介したのです。

 すると天から声がするのです。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」これは、イザヤ書42章の「主の僕の歌」と、詩篇2篇の「王の歌」からの御言葉です。つまりイエスさまは、僕としての王なのです。王と僕がイエスさまにあって一つにされているのです。

ヨハネは、悔い改めのバプテスマを説き、悔い改めにふさわしい実を結ぶことをメッセージし、イエス・キリストを紹介して「主の道を備える」と、歴史のスポットライトから退いていきました。そしてイエスさまが、バプテスマをお受けになることで、その公生涯が始まっていくのです。

私たちは、ヨハネが紹介したイエスキリストをどのように受け止めたらよいのでしょうか。「悔い改め、悔い改め」と言いながら、悔い改めができない私たちに、「実を結ぶこと、実を結ぶこと」と言いながら、実を結ぶ事ができない私たちに対して、イエス・キリストが紹介されているのです。
 「私たちはどうすればよいのでしょうか」本当に裁かれなければいけない私たちの罪が、イエス・キリストの十字架で身代わりとして裁かれるために、神さまは、「わたしの愛する子」を遣わしてくださったのです。

「私たちはどうすればよいのでしょうか」神さまが、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」といわれる主イエス・キリストをただ信じていきましょう。

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