今週のみことば

~今週のみことば~
わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。 イザヤ書61章10節








2009年5月5日火曜日

5月3日 JGC横浜 主日礼拝

第一礼拝 マタイ7:21-23 「だれが御国に入るのか」

わたしに向かって『主よ主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

神さまのみこころってなんでしょう?ある人は預言をし、ある人は悪霊を追い出し、ある人は奇跡を行いました。しかし、イエスさまはその人たちに向かって「不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と厳しいことばをかけられます。こうした行いは、神さまのみこころではないのでしょうか?

第一コリント13章は、「愛の讃歌」ともよばれ、結婚式などにも多く朗読される聖書のみことばです。ここには、どんなに偉大な業や行い(異言、預言、奥義、知識に精通、施し)をしても、「愛がなければ、何の役にもたちません」といっています。

「愛」とは関係性において、はじめて成立するものです。これは「私がキリストと結びついているか」という関係です。では、キリストと結びつくとはどういうことでしょうか?

ある日のことです。イエスさまは会堂管理人ヤイロから、娘が死にそうなので助けてほしいと頼まれました。弟子たちをともなって、大勢の人々に囲まれて、その家に向かう途中のことです。12年間も婦人病を患っている人がいました。イエスさまに癒してもらおうと近くによってきましたが、イエスさまに面と向かって声をかける勇気もなかったのでしょうか。しかし、イエスさまの服の裾にさわれば癒されるのではと思い、こっそりと裾にふれたのです。すると、この人の病気が治ったのです。

イエスさまは、この人が自分の服に触れたことに気がつき、自分のうちから力が外に出て行ったことにも気がつきました。群集に囲まれていたイエスさまの周りの人々は、イエスさまの肩に触れたり、手が触れたりしたことでしょう。しかし、イエスさまはこの人に対してだけ、主の方から力が出たことを感じたのです。

私たちはイエスさまの周りにいて、イエスさまを慕っているかのように「主よ主よ」と声をかけている、その場にいた群集のような者かもしれません。しかし、イエスさまの方からは、何の力もでないし、何の反応もないのです。ところが、この女性だけは「キリストと結びつくこと」ができたのです。この人の何が良かったからなのでしょうか?

この人の良いところは、何も見出すことはできません。神さまの前にでる資格もないと感じ、直接に声をかける力も、勇気もない人です。ただ彼女は、自分自身の弱さを知っていたにすぎないのです。それゆえ、この人はイエスさまと結びつくことができたのです。それゆえ、キリストの愛を知ることができたのです。

「父のみこころを行う者」とは、まさにこのような人のようではないでしょうか。イエスさまのために、何も行うことはできない弱い私を自覚することではないでしょうか。そのような自分を認めるとき、イエスさまはそのような者を選び、キリストと深く結びつくことのできる恵みと、天の御国に入る特権を与えてくださるのです。


第二礼拝


JGCスペシャル ナルちゃんのはなし(生まれる前~中学まで) 次回(5/24)は、中学~高校のときの話し(?)



メッセージ「実現するみことば」 ルカ1:5-23
私のことばは、その時がくれば実現します。

神さまは、人々から軽蔑されている人、人々に訴える力がない人、社会の片隅に追いやられている人、存在すら認めてもらえない人、辛い思いでいる人...を大切にされる方です。その一人ひとりの声をかけてくださり、励ましと慰めを与えてくださいます。

ザカリヤとエリザベツさんの夫婦は、正しい人ではありましたが、子どもに恵まれていませんでした。当時では、正しい人は神さまから祝福されて、子どもがたくさん生まれえると考えられていたようです。

私たちも正しいことをすれば、それに見合った報酬という祝福を期待します。

 多くの企業では、業績を上げるために、集客、売上げ、利益につながるように様々な努力をします。そして、その業績が去年よりもよくならなければならないと考えます。業績が悪ければ、それば失敗であると考えます。
 しかし、ファーマー(農家の人々)は違った考えを持ちます。彼らは、種をまき、水を与え、成長を見守り、作物を収穫することを今年も去年と同じ手順でします。もちろん多くの収穫のために努力もしますが、豊作の年もあれば、凶作の年もあることを知っています。人は天気を左右することも、不作を防ぐことも、病気をコントロールすることもできないのです。だから、とにかく毎日、一生懸命に働いて、どうなっても、それを受け止めるのというのです。

そうはいっても苦しみや失敗などは、苦しむべき原因や、その意味が分からないと、私たちは本当の苦しみに陥ってしまいます。「どうして、私が苦しまなければ」「どうして、私が病気にならなければ」「どうして、私が仕事をクビにならなければ」「どうして私だけ...」

ザカリヤさんは、子どもができないことで「どうして」という思いを抱いたこともあったかもしれません。そして、いざ神さまの使いから「妻エリザベツは男の子を生みます。その名をヨハネとつけなさい」と告げられたとき、「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と「どうして」と訴えかけたのです。

私たちも、時として聖書のことばや神さまに対しても「どうして」と訴えかけます。神さまを自分の秤にかけて、物事を図ってしまうのです。私が理解できたら、納得できたら、それを信じようとする生き方の主人は「神」ではなく、「私」になっています。

読売新聞(3/27)の朝刊に、子どもの詩が掲載されていました。
 「天気予報」
  天気予報で「明日は晴れ」
  晴れてほしい日だから 信じる!
  もしも「明日は雨」だったら
  まぁ予報だから変わるさ
  信じない!
  信じる?信じない?
  自分しだい これでいいのかな

この小学生の子は、自分のあり方に疑問を抱いています。

聖書のことばは、神さまのことばです。神さま自身でもあります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)

みことばは、神さまのことばなので信頼できます。みことばを信じるとき、それは現実のものとして、私たちのただ中に、事を成してくださいます。

ザカリヤの妻エリサベツは、みことば通り、身ごもったのです。「私のことばは、その時が来れば実現します」そして、エリサベツは「主は人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださ」ったと、神さまを讃美するものにしてくださるのです。

神さまがザカリヤとエリサベツを心にかけてくれたように、あなたを気にかけてくれださる神さまがいるのです。「私のことばは、その時が来れば実現します」と語っている、あなたを生かす聖書のみことばを大切に受け止めて、信頼して歩ませていただきましょう。


【5月生まれの誕生会】
 みなさんおめでとうございます。













【ご報告】
*JGCシドニーに通っていた方が、この日の礼拝に来てくれました。
*5名の新来者がありました。

5月10日(日)ゲスト:菊地幸三 師
JGCスペシャル:りゅうりゅう&けっち
*9:30am からバイブルスタディーがあります。

バイブルカフェ(男性のみ) ナルちゃん珈琲&しのびんケーキ
母の日スペシャル ケーキバイキング(女性のみ)

5月24日(日)
14:00~ ブラスバンド演奏会(鎌倉)へみんなで行きます!!

5月31日(日) ペンテコステ賛美礼拝
会場:お好み焼ころんぶす石川町北口駅前店
ゲスト:菊地幸三 師

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